アラビア語にまつわる情報を集めました。
1980年代、クウェートに駐在していた関係で、北イエメン(当時は自由主義陣営の北イエメンと共産主義陣営の南イエメンと分かれていた)のサナアとホデイダはよく出張で訪れた。
商売は港町のホデイダのほうが活発だったので、ホデイダ滞在のほうが長かった。
時にはタイーズにも立ち寄ることもあった。
当時は今ほどイエメン、と言う国の存在は世に知られていなかった。いや、中近東の国々さえ知られていなかった。
イランのイスラム革命や、イラクのクウェート侵攻で引き起こされた第1次湾岸戦争などでアラビア半島の国々も少し世に知られるようになったくらいだろう。
当時のドバイなども殆ど知られて居なかったハズだ。
初めて「イエメン」という言葉を聞いた時に先ず頭に浮かんだのは、「聞いたこともない国、イエー・メンという響きからして、地の果ての秘境」というイメージだった。
当時、ワタクシにはイエメンに関しての知識は無かった。
ただアラビア諸国に慣れておりアラビア語も少しは上達したころなので、本人が若かったこともあり、結構ドキドキして探検隊の気分でイエメンに出張していた。
北イエメンの首都、サナアの空港に着いたらすぐにホデイダ行きのタクシーを探す。
プジョーなどのボロい車では危険だ。
なんせ2000㍍近い峠を越えてゼロ㍍地帯のホデイダに5,6時間かけて危険な崖道を飛ばすのだから。
先ず、調子の良さそうなベンツのタクシーを選ぶ。
同時に人柄の良さそうな運転手かどうかも確認する。
当方の「生き死に」はベンツの運チャン次第、という認識はあった。
危険回避は自己責任であった。
今のように中東の情報は豊かでなく乏しかった。
外務省の危険情報なんぞは無かった。
(90年にクウェート在住邦人がイラクで人質になったころから、海外在留邦人に対して危険情報が伝えられるようになったようだ)
当時は写真嫌いでカメラは持ち歩かない主義だった(今にしては非常に残念だと思う)ので当時の写真が無いので、当時のポスト・カードにご登場願って話しを続ける。
... アラビア語の「abul-mosk=じゃこう(香り)の父」が語源 ◇学名:Abelmoschus manihot(Manihot=ブラジル名) 既に朔菓(種)まで出来ています。 花びらは横の方向を向いて咲くため、『側近盞花(そっきんさんか)』とも呼ばれます。 ...
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... 真剣に考えると僕の書いてるこの言葉、あ、日本語っていうんですけど みなさんにとってなじみ深いアラビア語のように右から左へ読む言語じゃないんで サイドバーで記事部分に読みたい記事を表示して、そのまま左から読むってことを考えれば 視線誘導とし ...